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さかなおやじのでたらめ戦国史 vol.005

 まずトップバッターは「赤座 直保」!以下に彼の簡単な経歴を記してみました。

・赤座 直保(生年不祥~1606年)
・関が原合戦当時は従五位下備後守、越前今庄2万石領主
・父の赤座直則は越前朝倉家、そして美濃斎藤家の後、織田信長に仕える。
・後を継いだ直保は秀吉の家臣となり、小田原城攻めで功を現し越前今庄2万石を拝領。
・関が原では、当初西軍に属しながら戦の途中で東軍に寝返る
・戦後「事前に去就を明らかにしていなかった」との理由で所領を没収される。
・所領没収後加賀前田家に仕え、7,000石を領する
・1606年に所領内の川が氾濫した際に検分に出向き、濁流に飲み込まれ溺死する。
・直保の子の孝治は、徳川家に気を使い「永原」と改姓する

 ざっとこんなもんですが、たったこれだけの事を見ても「怪しい箇所」がいっぱいです。まず、最大の謎は「なぜ関が原で寝返ったのか?」ですが、通説では背後の「小早川秀秋軍16,000」が東軍に寝返った為、連鎖的に寝返ったと言う説が一番受け入れられているようです。確かに、関が原に陣取った赤座軍は僅かに600人ですから、背後の「小早川軍16,000」が寝返ったのに対して、あくまでも西軍側を主張すればどうなるかは火を見るよりも明らかです。

 でも、本当にそれだけなんでしょうかね~?実は、赤座家が領主だった越前国には短期間ではありますが「小早川秀秋」が国主として赴任してきた時期があるんです。秀吉の朝鮮出兵の際に、総指揮官として大陸に渡った小早川秀秋は、目付け役の石田三成らに「総指揮官不適格」との報告を秀吉にされ、それが元で秀吉の怒りを買いそれまでの領地「筑前・筑後」を没収され、越前北の庄に転封されちゃってます。

 この「小早川秀秋の転封」は明らかに秀吉の方に非があると思います。少々軽率であったと言うものの、朝鮮では兵の先頭に立って敵陣に突撃し敵兵を槍で付き伏せたと言われています。まぁ、実際にこの男がそこまでの度胸があったかどうかは怪しい物ですが(笑)。それでも、石田三成の報告を受けて激怒した秀吉が彼を日本に呼び戻した際、「小早川秀秋」自身は、養父秀吉から褒めてもらえると思い込み、意気揚々と帰国したとあります。少なくとも、この時の彼の行動には、秀吉の叱責を受けるような物は含まれていない気がします。まぁ、当時は秀吉もすでにかなり耄碌してたんでしょう。

 とにかく、自身では見に覚えのない事で秀吉から譴責を受け、旧領を没収され北の庄に流されてきた傷心の少年(当時小早川秀秋は10台半ば)と、その寄騎武将となった「赤座直保」との間に、何らかの心の交流があったとしても決して無理ではありません。・・・って言うより、小説書くなら是非そうしたいところです。

 つまり、私個人としては「赤座直保」の関が原における寝返りは、その場の状況で行った「成り行き返り忠」ではなく、あくまでも旧主「小早川秀秋」に殉した物であったと考えたいのです。「寝返り前」に旧主の「小早川秀秋」と事前協議があったか否かは、個人的にはなかったものと考えたいところです。小説的には、「小早川秀秋」の境遇に同情した「赤座直保」側の一方的な思い入れがあり、それが関が原で「赤座直保」の自発的な行動となって表面化したと言う事に話をもって行く予定です。

 戦後の論功行賞で家康が彼の所領を没収したのも、彼「赤座直保」の寝返りが家康に対する忠誠心からではなく、「小早川秀秋」に対する同情心から出た物である事を知っていたからではないでしょうか。つまり、関が原において「小早川秀秋」が西軍にそのまま属していたら「赤座直保」もそのまま西軍に居残ったと思われ、彼の行動は論功行賞に値しないと判断されたと想像します。
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[ 2010/03/17 00:00 ] 歴史を裏読みする! | TB(0) | CM(0)
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